H I S T O R Y O F Y O U I C H I U I
ここでは宇井陽一選手の、レースの歴史を紹介します。
1999〜2002年
デルビ時代
デルビレーシングに所属。初年度は一からマシンを造り上げることに専念するが、翌2000年にはいきなりトップ争いを展開するまでに急成長。宇井陽一の 開発能力が開花したといってもいいだろう。2000年は5勝、2001年は6勝をマークしてシリーズチャンピオン争いを最後まで展開。惜しくも2年連続 でランク2位に甘んじたが、3年はかかるといわれた「勝つためのマシン開発」の定石を打ち破る異例な速さでチームをトップレベルへと引き上げた功績は、 高く評価されたといえよう。特に2001年は基本的に同じマシンである兄弟チーム・ジレラがタイトルを獲得していることが、それを証明している。
2003年
ジレラ時代
前年2002年度は2年間の戦績が信じられないほど低迷を喫したが、これはひとえに開発の滞りが要因。そこで心機一転、常にチャンピオンを争うマシンを 得て闘うためにチームを移籍。だが移籍したスティルガルダRTはチームの総合力に難があった。にもかかわらず今ひとつ波に乗れない成績が続いたことをラ イダーの責任とし、チームは契約違反の解雇通告を出す。ただこれを見たデルビチームのボスが、ジレラレーシングで後半戦を走よう配慮してくれ、最後まで 善戦するも成績的には不満なレースが続いた。
2004年
アプリリア〜
WCM時代
翌年、デルビ(ジレラ)から開発依頼こそあったものの、苦戦が続いたこととアプリリア首脳陣からの誘いもあり、再びアプリリアを駆りアブルッツォRTか らエントリー。しかし不幸なことにシーズン途中でまたしても不当解雇を言い渡され、裁判沙汰にまで発展。本来のレース以外で闘わねばならない状態とな る。しかしライダーの能力を評価してくれたWCMチームから、後半戦をモトGPクラス参戦というオファーを受ける。もちろんこれを快諾した宇井陽一は、 初のビッグマシンでのレースを披露。車種を問わずに乗りこなせるセンスと変わらぬ開発能力を発揮したといえる。
2005年
ST600・8耐時代
実は2004年末まではGP250にクラスを上げてWGP参戦を予定したのだが、日本人ライダーへの風当たりが強くなってきたためか主催者側からエント リーを拒否され、急遽全日本にそのフィールドを移すしかなかった。そこでバーニングブラッドRTからまったく未知の市販車カテゴリーST600に参戦す ることになった。しかしシビアなレーサー主体の経験しかない宇井陽一にとって、手を加える部分の少ないこのレースは、思うようなマシンへセットアップす るのが難しく、また相次ぐトラブルやそれに起因する転倒が続いてしまい、不本意ながら初めて1ポイントも上げられずシーズンを終了。その一方でこれも初 めて鈴鹿8時間耐久レースにWMPRより参戦、完走を果たしている。