H I S T O R Y O F Y O U I C H I U I
ここでは宇井陽一選手の、レースの歴史を紹介します。
1992年
関東選手権 第9戦 那須
S80クラス
この年から地方選手権S80クラスに本格参戦を始めた宇井陽一。このマシンは、市販レーサーホンダRS125Rの車体にモトクロッサー80ccエンジンをチューニングして搭載したもの。筑波や那須にエントリーして優勝も数回経験する。そして最終戦までシリーズチャンピオンを争うが、残念ながらこの年はランク2位に終わった。
1993年
間瀬選手権 第6戦
NB125クラス
翌年ノービスクラスで最も激戦区であるNB125クラスにステップアップ。関東選手権を中心に参戦する。ここ間瀬サーキットにも積極的にエントリーし、独走優勝の山を築く。最終的にはトラブルに泣きランク2位だった。このほかスポーツランド菅生でもコースレコードを記録するなど、注目のスーパーノービスでもあったのだ。
10月24日
関東選手権 第17戦 筑波
NB125クラス
ホームコースの筑波でも、陽一は連戦連勝を収めてシリーズチャンピオンを獲得している。ちなみに写真は驚異的なコースレコードを記録し独走優勝を決めた最終戦だが、このレースの3位には関口太郎が入賞。NB250では加藤大治郎が独走優勝を決めている。この年筑波、富士、那須、菅生、エビスでコースレコードを樹立した。
1993年末
独走優勝の山を築き、
特別昇格で国際A級へ
1993年の陽一はまさに連勝街道をばく進した。筑波、富士、那須、間瀬、菅生、エビスと計6コースを走り、全部で16レースを走った。そのうち優勝は13回で勝率8割以上、コースレコードは5コースという驚異的な成績を残した。この成績を引っさげ特昇した陽一は、翌年チームタイラから全日本GP125クラス参戦を果たすことに。
1994年
全日本 第9戦 TI英田
GP125クラス
特別昇格で全日本に参戦することになった陽一は、早くもシリーズ第4戦の筑波で初優勝を決めた。しかしマシンをヤマハTZに換えたことと激戦のカテゴリーということもあり、シーズン後半戦のTI英田でポールtoウインを決めてやっと2勝目をマーク。この年はランク4位で終えるが、自信を高めたことは間違いないだろう。
1995年
全日本 第1戦 SUGO
GP125クラス
この年はヤマハテクノに移籍し、開幕戦の菅生で雨を制して優勝を決める。しかしこのレースは雨が幸運をもたらした。大幅に変更された95TZ125は、昨年までのフィーリングとは一変したため、セッティングにかなり苦労し、ドライでの勝ち目は無い状態だった。マシンのセットアップ能力が開花したのはこの頃かもしれない。
全日本 第3戦 FISCO
GP125クラス
2戦目はホームコースの筑波だがここでは4位に甘んじる。その雪辱を晴らすかのごとく3戦目の富士では混戦を制し2勝目を記録。その後美祢で3勝目を挙げ、筑波以外のレースでは表彰台をキープするという安定した速さと強さを見せつけた。下馬評ではチャンピオン最有力候補だったが、それを証明するようなリザルトが続く。
全日本 第7戦 鈴鹿
GP125クラス
鈴鹿での第7戦でもトップグループに付け優勝を目指すが、接触というアクシデントで3位に終わる。それでも連続ポイントゲットは継続し、シリーズチャンピオンが現実的になってきた。それでもあくまで速さにこだわる陽一は、思い通りのレース展開に持ち込めないことに消沈気味のシャンパンファイトを見せたのが象徴的。
全日本 第9戦 SUGO
GP125クラス
ボーナスポイントが加算されるMFJ-GP。ここで一気に優勝しタイトルを確定させたい陽一だが、そう簡単に奪取することはできなかった。ハーフウェットの難しいコンディションで、レイン寄りのタイヤをを選ぶが無情にも路面は乾いて行きトップから後退し無念の11位に終わるが、ライバルの自滅もあってチャンピオンを決めた。
全日本 第10戦 鈴鹿
GP125クラス
前戦で念願のシリーズチャンピオンを獲得した陽一は、最終戦の鈴鹿でポールポジションを獲得。鈴鹿初優勝を目指し決勝でもトップに立ち、後続を振り切るべくペースアップ。これが裏目に出て転倒リタイヤに終わるが、表情には攻め込んだ満足感があった。リザルトよりも速さにこだわる陽一のスタイルはこの頃から顕著だった。
MFJランキング表彰式
95全日本選手権GP125クラスのチャンピオンを表彰される陽一。貴重なスーツ姿だ。この時点での来季はまだ未確定。本人の希望は250へのステップアップだったが、実質の選択肢としてはWGP125か、国内で250に乗るかのどちらかだった。96年初頭、結果的にWGP125をドイツのチームクルツで走ることが決定。
1997年
WGP IRTA合同テスト
スペイン・ヘレス
96年からWGP参戦が決まった陽一だが、思うような成績が残せないでいた。戦闘力に劣るマシンで戦わなくてはいけない上に、データも少ない状態で、苦戦が続きランク18位と不本意な成績に終わる。翌年のシーズンも同じチームクルツで走るが、せめてもの救いはシーズン前のテストを走ることができたことだろう。といってもこのヘレスが最初で最後。この年はポールポジションを獲得したりランク12位と前年を上回るものの、やはり目立った成績が残せない状態だった。98年は同じチームクルツでヤマハを走らせた最後の年となる。表彰台に立ったりもするが、ランキングは11位とシングルはならず。そして99年にはデルビへ移籍。初年度はマイナートラブルに泣かされランク11位と振るわなかったが、その後の活躍は記憶に新しいだろう。